妻帯肉食する住職への不信感について考える
おはようございます。手水鉢(@chouzubachi)です
実家のパソコンに、法事にかかる費用が記されたエクセルファイルがあったので、覗きました。
亡くなった祖父の法事にかかる費用で、総額を見ると
数百万にものぼっていました!
この費用は、葬式一回分の費用じゃなくて、N回忌までの費用や諸々の費用を加えたものです。
そして、費用のすべてが寺に払われる訳じゃないです。
にしても、費用がかかりすぎです。
法事などにかかる費用が多すぎ。異常。
他の家がどうなっているのかわかりませんが、私の感覚としては「高い!」という感想を持ちました。
住職が尊敬できる人で、話にそれなりの価値があればいいものの、
住職はまだ若いしどういうヒトかもよくわからないし、話も別く面白くもないので、
自分の懐からお金が出ていないとしても、その費用の高さに納得できません。
坊主が妻帯し子供を作る現況に至るまでの流れ
そもそも坊主は妻帯肉食禁止じゃないの?
そんな風に思ってちょっと調べてみました。
日本伝統芸「なし崩し」
どうも以下の様な流れで妻帯は、なし崩し的に認められるようになったようです。
妻帯禁止は、仏教のはじめの方では守られていましたが、
日本では、末法無戒ということで日蓮宗で無視され、浄土真宗でも出家在家に区別はないとして無視されるように。
また、坊主は免税で、江戸時代以降は国家機構に取り込まれて給料が出ていました。
なので、妻帯し子供が増えると国家的に損失なので妻帯は禁止ということになったようです。
(もっとも昔から妻帯禁止にかかわらず、
大黒さんという半ば公認の女性が庫裏にはいて子供まで設ける僧侶が多数居たそうです。檀家総代はそういうことも知って上で、小作人の人別帳や墓の管理をお願いしていた歴史がずっと明治まで続いていました。
ということです)
明治になると寺に対する財政的支援はなくなるので、明治五年の太政官布告で「 肉食妻帯勝手タルベシ」となるわけです。
そして妻帯や兼業をしなければ運営できない状況や檀家からの要請もあって、世襲化が進みます。
こうして、
日本仏教においては、平安時代の最澄以降、戒律(具足戒:波羅提木叉)の戒脈や、それを基にした僧伽の伝統は、基本的に途絶えており、具足戒を受持する出家者・修行者は、他国の僧伽で受戒したごく少数者を除いて、現代の日本仏教各宗派には存在しない。それゆえ日本における既成の伝統宗派に僧伽(サンガ)は存在しない。
という状況になったということです。
私が坊主嫌いな理由
なるほど、妻帯する理由はよく理解できました。
で、坊主嫌いが治ったのかというと、そういうことでもなく、
結局自分が坊主が嫌いな理由は、戒律を守らないから、というより別のところにあるようです。
矛盾した儀式
仏教では、霊的なものをそもそも否定しているのに(一切皆空)、それの存在を前提とした儀式の存在。
この明確な矛盾が払拭されないかぎり、私の坊主嫌いは治らないでしょう。
煩わしさ・不明朗な会計
法事の煩わしさは、「世間」のしがらみからくるので、坊主は直接関係はしませんが、それでもその世間のしがらみを利用している点で苛々させられます。
また、坊主たちの不明朗な会計もイライラさせられます。
私にとって、坊主というのは「世間」の悪い側面の集合体のように思えます。
自分の宗教観の確立が今後の課題
坊主が嫌いならキリスト教徒にでもなるのか?
そういわれてももちろんNOです。
そもそも日本人の多くは仏教ではなく、日本教、あるいは墓参り教だ!とかいろいろ議論があるようです。
自分の宗教観をどう構築していくのか。
私の中でのこれからの課題となっています。
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